☆嫁ちゃん☆

2013年5月10日 (金)

あたいのこと②・・・の巻

ようやく9日から仕事復帰しましたbearing

なんと6日も休んだよ~会社には迷惑かけたな~反省sweat01

しかし、今もだるさが抜けなくてね~。困っています。

さて、前回4月の誕生日にあたいの事少し紹介しましたが・・・なかなか続きが更新できなくて、今日は夫マンも寝たので、夜な夜な更新します。

長文になるので、小さい字で・・・読みづらいと思いますが、面倒な方はスルーしてくださいね。

小学6年の4月群馬県太田市にある病院へ入院しました。

ココは、喘息の子供だけ治療の為に入院する病院でした。 自分の病気を知る為にDrから病気の事を教えてもらうったり、運動治療をしたりと様々な事をします。入院だからといってベッドに寝ている訳ではありません。普段は病院の外にある学校に通っています。病室は誰もいません。

学校も普通の学校と同じです。体育の時間もあれば、行事も文化祭など計画していろいろやります。本当に普通の学校と同じです。

ココでは、本当に楽しい事もあったけどやっぱり家族と離れて暮らすのは寂しいですね。電話も沢山しました。面会の日も楽しみにしていたしね。 夏休みや冬休みの1週間くらいは外泊で自宅へ戻れるのですが、あっという間に終わってしまって帰るのが嫌な思いしたの思い出します。

本来は1年間の入院の予定が、結局、2年半入院生活しました。この間のお友達や同級生、恩師は今でもお付き合いしていただき、以前は何度かみんなで会って懐かしい話をしていたのですが、最近は会う機会がなくなりました。先日も同級生から連絡があり、恩師と同級生家族と会って話が出来ました。お互いまだ喘息とは離れられないらしくって気遣っていましたが・・(笑)

そうやって同じ病気の子供達が励ましあって生活していました。若い看護士さんは姉のように相談相手になってくれ、年配の看護士さんは母的な感じで悪い事をすれば叱る、そんな病院生活でした。親と離れ、いろいろな事学んだ時期ですね。人との付き合いや思いやり、病気の事だけでなく、本当に別の事も勉強になりました。この時期の知り合った方には本当に感謝しています。

中学2年の冬、退院し、地元に戻りました。本来通う中学校へ転校しました。地元の同級生だけではなく別の小学校と統合なので知らない子も沢山いました。凄く緊張しましたね。でも幸いみんないい人ばかりで、いろいろ教えてくれました。凄く助かりました。実際、地元の中学に在籍できたのは半年くらいでした。

喘息悪化し、大きい発作になり入院を繰り返してしまい、中学3年の夏休み、父が他界しました。受験勉強もできなく、補修の授業にも参加できなく、かなり突然な事で、ショックを受けていました。そんな精神的に落ち込み、影響か不明ですが、大きな発作を起こしてしまい、学校に通うことさえ出来ませんでした。結局、群馬大学医学部付属病院へ入院する事になりました。ココは様々な病気の子が入院する病院です。院内に小さい学校があり、そこへ転校する事になりました。受験前って事のあしましたが、優先は病気を治す事です。卒業と同時退院するので、それまではきちんと治して、新たな生活が出来るよう頑張りました。ココでもあたらな出会いがありました。いつもコメントくれる「さくらっちちゃん」は同級生です。「kiraraちゃん」は同室で一緒に入院生活したお友達です。本当に病気だけど、楽しい時間を過ごしました。若いDrと話をしたり、勉強を教えてもらったり・・・・。そんな時間が思い出します。

私の中学時代は、普通の生活と違います。親と一緒に生活したのは本の半年。両親にも大変な思いをさせてしまったな~親不孝だったな。って思います。その分感謝も沢山しています。母は父が亡くなったあと1人で私達姉妹を育て、しかも私は入院生活。泣いている暇はなかったと思います。今私は30代後半になり、当時の母の年齢です。今の私は母の様に強くいられません。母は私達がいたからと言うかもしれません。子供には何も語らない母なので本音は分からないけど、かなり辛い時期だった事は間違えないです。

もうじき母の日ですね。何も出来ないけど、母の事を感謝しようと思います。今回はココまで・・・・・後日高校時代を更新します。

2013年5月 5日 (日)

撃沈中です・・・の巻

ご無沙汰しております。

既に5月になりました。は~sad

実は4月下旬の連休に夫マンの親戚が遊びに来てくれたので、姪っ子・甥っ子を向かえに行き一緒に遊ぼうと計画。姪っ子たちは風邪を引いていて連れてくる事が出来なかったのですが、元気な甥っ子だけ連れて家で遊びました。

その日は風も強い一日だったので家で子供達はゲーム三昧です。甥っ子はそのまま泊まり夫マンと新しいゲームを買いに行き、二人で夜更かしして遊んでいました。いつもだと私達夫婦の部屋に布団を敷いて甥っ子は寝るんですが、夫マンが面倒だと言い出し、結局3人でベッドで川の字で寝ました。

翌日は元気に3人でお出かけして、夕方には帰宅。夜まで元気に騒いで夫マンと遊んでいた甥っ子が急に39度の熱が出て、慌てて家に送りました。

その甥っ子の風邪を有難く頂き・・・今撃沈中です。

38度から37度をいったりきたり・・・・。全く下がらない~。しかももう仕事3日も休んでるし、最悪だよ~。やっと今日起きれる様になって、久しぶりにPCを開いています。メールがすご!!!

明日は仕事行かないとup

2013年4月12日 (金)

誕生日・・・の巻

実は4月10日は嫁ちゃんの誕生日でしたscissors

30代後半になると・・・年をとるのが寂しいです。気分はまだ20代なのだdash なんてsmile

今年も沢山のみなさんからのメッセージありがとうございました。嬉しかったですheart04

そして、家族からのメールやプレゼントも沢山いただきました。

誕生日当日は夫マンと夫マンのお友達のお店へ行き、サプライズしていただき・・・特別料理まで作っていただいて・・・本当に幸せものですnote

なによりも・・・この年まで元気に過ごせたのも両親へ感謝です。ありがとう~

ここで少し嫁ちゃんのことを・・・書き込みします。長くなると思いますがお付き合いお願いします。面倒な人はスルーしてくださいね。

嫁ちゃんは群馬県の山奥で産まれました。生まれた日はもちろん分かるのですが、何グラムで生まれて何時に生まれて・・・は全く知らないです。母に聞いても「忘れてしまった」と冷たい反応。子供心に「私はこの家の子ではないんだ」と思ったほどです。 母方の祖母が時々「嫁ちゃんは生まれた時大変だったんだよ~どこか忘れたけど骨が折れていてね~」ってしばらく保育器に入ってなかなか退院できなかったらしいです。

生まれてすぐ私は「小児喘息」と診断されました。両親はあちらこちらの病院を回り診察していただいたらしいです。高崎の病院で入退院を繰り返し、両親は自営業だった為、父方の祖母が付き添っていた覚えがあります。月曜日に入院し、金曜日に退院。また月曜日に入院してしまうと本当に季節の変わり目など大変だった様です。そして4歳の頃高崎の病院から紹介され、群大へ通院するようになりました。

当時はまだ古い建物の病院で、迷路みたいな大きい病院だった覚えがあります。担当になったM先生は4歳から23歳まで診察していただき、本当に父親みたいな存在ですね。有難いことに本当にいい先生にめぐり合えました。

幼少期も我慢しなくてはいけない事など沢山あり、毎日泣いた事もありました。そういう思い出って結構鮮明に覚えているんですよね~。「なんで私だけ・・・?」と母を責めた事もあります。その分母は私に甘い部分もあったと思います。私我ままだったしな~。

小学1年生になった頃、M先生から長期入院して治療する場所があると、両親は説明を受けたらしいです。私自身は全く知りませんでしたが、その場所は実家から車で3時間かかる病院同じ群馬県内なんですがね。同じ喘息の子供が小学1年生から中学3年生まで入院しながら隣接する養護学校に通い、治療する場所です。母は断ったらしいです。なので地元の小さい小学校に通いました。

小学校でも、体育が出来たり出来なかったりしてので、「ズル休み」なんていわれた事もあったり、家から歩いて通うのが辛く、送り迎えして貰ったりしていました。周りにも迷惑掛けていましたね~。もちろん学校も良く休んでしました。休めは勉強も遅れるし・・・・友達との話題も遅れますよね。いじめられた事もあったかな?というより仲間はずれって奴かな?そんな事もありました。今ではいい思い出かな?

小学校5年生の終りにまた病院のM先生に以前紹介された病院を進められました。両親と私で一度見学へ行く事を進められました。見学に行くと沢山の患者さんがいました。みんな県外や地方から1人で入院して、治療をしていました。入院しているから寂しいとかそんな感じは全くなかったです。私は自分が少し変われるかな?両親と離れて治療してみようかな?と思い決心しました。両親はもちろん悲しい思いしたと思います。母は泣いていましたね。でも、このまま地元で暮らしていても病気は良くならないし、むしろ迷惑掛けてしまう。そんな思いもあったかも知れません。実際はそんな言葉は言えませんが、今思えば・・・・。

小学6年生になる年に学校を隣接する養護学校に転校しました。転校する前に友達にお別れ会を開いてもらって本当は離れるの辛いけど・・・・決めたことだから、はじめは1年で退院しようと思って地元を離れました。

長文になったので今回は・・・ココまで。後日続きを更新します。

お付き合いありがとうございます。